メゾン・ド・ふわふわ

「かねもうけブログ」ではありません。

私の学マスには、アダルトなタトゥーが刻まれている。

 『学園アイドルマスター』、略して学マス。

 きらびやかなステージと、トップアイドルを目指しひたむきに夢を追う少女たち。そんな熱血青春なアイドルたちの身に、まさか「永遠に消せないアダルトなタトゥー」が刻まれることになるとは、夢にも思っていなかった。

 

 事の始まりは、大画面でゲームを楽しみたいという極めて純粋で、かつ健全な欲求だった。私は某アダルト企業の息がかかったPC用ゲームランチャー「DMM GAMES PLAYER」を介して、PCの大画面で学マスをプレイし始めた。

 美麗なグラフィックで動くアイドルたちは素晴らしかったが、徐々にこのゲームを動かすための土台であるランチャーの挙動がどうにも私の神経を逆なでし始めた。

 とにかく、尋常ではない頻度でアップデートが入るのだ。そしてそのたびに、システムへ深く干渉するための「白紙委任状」とも言える管理者権限の承認を要求してくる。画面が暗転し、「このアプリがデバイスに変更を加えることを許可しますか?」というWindowsの警告が出るたび、私の脳裏には疑念がよぎった。こいつは裏でWindowsの心臓部、すなわちレジストリだの何だのをガリガリといじくり回しているのではないか、と。

 

 この手の過剰なシステム干渉を目の当たりにしたとき、おじゲーマーなら誰もが思い出す、歴史的な「大事故」がある。

 それが、2013年に大手ゲームメーカーのセガがやらかした、通称「PSO2(ファンタシースターオンライン2)HDD消去事件」だ。

 当時のビデオゲーム業界を震撼させたこの大事故は、ゲームのアップデートプログラムの不具合が原因だった。あろうことか、アップデートを実行するとゲームとは全く関係のないPC内の他のデータまで巻き込んで削除してしまうという、前代未聞の暴走を引き起こしたのだ。

 被害はゲームデータに留まらず、ユーザーが大切に保存していた思い出の写真(あるいはアレな写真)、仕事の重要書類、OSの起動に必要なシステムファイルに至るまで、ハードディスク(HDD)内のあらゆるデータを文字通り「全消去」して更地にした。セガが公式に被害を認め、多額の補償対応に追われたこの事件は、日本のネット史に残る悪夢として今も語り継がれている。

 プログラミングを行うのが人間である以上、どれほど技術が進歩しようとも、ヒューマンエラーによる事故率を完全にゼロにすることはできない。あのセガほどの老舗企業ですら、一歩間違えればPCを再起不能にするほどのバグを流してしまうのだ。

 

 ならば、私のPC内で高頻度にシステムをいじくり回しているこのアダルトなランチャーがある日突然暴走し、私の大切なPC環境を消し去らないと誰が言い切れるだろうか。しかも、これは強制アップデートであるため、数日遅らせて人柱からの報告を待ってからということも難しい。

 そう考えると急に恐ろしくなり、夜も眠れなくなった私はついに決断した。アダルトなランチャーのアンインストールである。リッチなグラフィックやサウンドよりも、PCの安全と精神の安寧を選んだのだ。

 

 しかし、本当の恐怖はここから始まった。

 

 PC上の学マスのアプリケーションとアダルトなランチャーをアンインストールした私は、仕上げとして学マスのゲームアカウントと、件のアダルト企業との「データ連携」を解除しようとした。利用しないにも関わらずアダルトな連携をしたままというのは、どうにも落ちつかないからだ。

 セクシーグラビアで成り上がった元グラビアアイドルが、テレビに出始めた途端に一切肌の露出をしなくなるように、あるいは元カレに手切れ金を渡し、念書を取り、過去を精算するように、これからはAndroid版だけで健やかに「清純派アイドル」として活動していこうと考えたわけである。

 だが、どこを開いても何を読んでも連携解除の方法が見当たらない。苛立ちの中ネットで調べてみると、驚くべき事実が明らかになった。

 なんと、一度紐付けたデータ連携は、ユーザーの手では二度と解除できない仕様だというのだ!二度と解除できない仕様だというのだ!あまりに驚愕の事実であったため二度書く。

 私は絶望した。いくらPCからアダルトなランチャーを跡形もなく消し去ろうとも、私が毎日手元の携帯端末で起動する学マスの裏側には、あのアダルト企業によるデジタルタトゥーががガッツリと刻み込まれたまま残り続ける。

 運営のデータベース上では、私の清純アイドルたちはアダルト企業と未来永劫結びつけられたままとなってしまったわけである。

 

 少女たちの涙と汗、そして純粋な夢が交錯する学マスの世界。その眩しすぎるステージの光を浴びながら、私のアイドルたちは今日も衣装の下に二度と消せない「アダルトなタトゥー」を疼かせている。

 

 

 以下、近況報告。

 まず、「まだ続けてたのかよ」というのが来訪者の多くが抱く感想だろう。はい、まだ続けてました。まだ十万石(藩っぽい)以上もあるし、特に辞める理由もなかったからね。しかし流石にマンネリ感を覚え、この半年は「ログインするだけおじさん」になっていたのは事実だ。

 このままフェイドアウトかなと思っていたのだが、先日の無料10連の結果がそこそこいい感じであったこと、そしてなにより昨日まで開催されていた「標ガシャ」で麻央ちゃんとギャルちゃんをまさかの10連で引き当てたことによりやる気が回復してきたところだ。

 思えば前回の卒業危機の際も10連で麻央ちゃんが現れて、私を引き留めてくれたのだ。やはり彼女とは縁があるのだろう。麻央ちゃんラヴ。

 そういったわけで、モチベーションアップ株式会社となった私は久々にプロデュースを回しているのだが、何故だがSSSにすら届かなくなってしまった。半年のブランクにより勘が鈍っているのか、あるいは今回の麻央ちゃんがスキル的に「そうでもない」のか……。両方かもしれないな。

 

 ところでこのアカウント名「鎌倉山の隠者」、語呂が悪いよな。学マスぼうやたちにはラノベキッズも多いだろうから、「鎌倉山の隠者(ハーミット)」としようか?中二感が出て良いのではないか。あるいは「鎌倉山の世捨人」はどう?語呂は良いが言葉が強すぎるか。

 ああ、あといつもカードを借りてくれるフレンドたち、どうもありがとう。それでは、また。

 

 ……と締めようとしていたところ、つい数分前、本日より開催のガラクタロードガシャをガシャガシャしてみたら、なんとこれも10連で出てしまった。乗るしかないね、このビッグウェーブに。

 

 

おわり

偉人たちは本当に「偉人」だったのか──エイダ・ラブレスと貴族階級

 歴史の教科書を開くと、そこには数々の「偉人」たちが並んでいる。前人未到の最高峰に命懸けで挑んだ登山家、人類の未来を変える大発見をした科学者、あるいは世界の真理を語った哲学者。私たちは彼らの功績を、個人の卓越した才能や強靭な意志の結晶として受け入れがちだ。

 しかし、一歩引いてその背景を眺めてみると、ある共通点に気づく。彼らの多くは、王侯貴族や圧倒的な富を持つ特権階級、つまり現代でいう「セレブ」たちなのだ。はたして彼らは、本当に人類の中で群を抜いて優秀だったのだろうか。歴史の裏側に潜む不条理を紐解くと、私たちが信じてきた偉人像の脆さが浮き彫りになってくる。

 

 まず直視すべきは、当時の社会における圧倒的な構造の不平等である。昔の庶民にとって、生きることはそれ自体が過酷な労働であった。夜明けから日暮れまで泥にまみれて働き、ようやくその日の糧を得る。そんな「生活すること」だけで精一杯の日々の中で、学問や芸術、冒険に目を向ける余裕などあるはずがない。

 一方で、生まれながらに不労所得を持つ貴族たちは、人生のすべてを「暇潰し」や「趣味」に費やすことができた。当時の科学実験や思想の探求、あるいは未開の地への遠征は、どれも莫大な資金と時間を使った最高級のエンターテイメントだったのだ。

 教育を独占し、最先端の知識や機材に触れ、何不自由なく挑戦を続けられる環境があれば、凡庸な人間であっても何らかの成果を出すことは難しくない。彼らは特別に優れた遺伝子を持っていたのではなく、単に「挑戦する権利とリソース」を独占していただけなのだ。

 

 さらに不条理なのは、歴史に名が残る偉人の陰で、数え切れないほどの庶民の功績が搾取され、横取りされてきたという事実である。

 象徴的なのが、山々を初制覇したとされる高名な登山家たちの記録だ。歴史の表舞台でスポットライトを浴びるのは、資金を出し、最後に山頂を踏んだ白人貴族や超富裕層ばかりである。しかし、実際に重い荷物を背負い、危険なルートを切り開き、彼らの命を支えていたのは現地の案内人や先住民、つまり名もなき庶民たちであった。

 研究の世界でも同様だ。地道な計算や過酷な実験を繰り返した助手たちの血ににじむような努力は、パトロンである貴族や、研究室のトップである権力者一人の手柄として回収されていった。汗を流したのは庶民でありながら、果実を手にしたのは常に特権階級だったのである。

 

 なぜこのような不平等がまかり通るのかといえば、それは歴史を書き換える「記録と発信」の権力すらも、彼らが握っていたからに他ならない。どれほど優れた技術を持ち、画期的な発見をした庶民がいたとしても、それを文字として残し、本として出版し、学会や宮廷で発表する手段を持たなければ、その存在は最初からなかったものとして処理される。

 歴史とは、勝者や権力者によって都合よく編纂された物語である。文字を読み書きする一握りの人間たちが、自らの階級の素晴らしさを誇示するために、身内の評判を広め、互いにもち上げ合ってきた結果が、現在の教科書における「偉人」のラインナップなのだ。

 

 こうした視点から改めて世界初のプログラマーとされるエイダ・ラブレスの評価を見てみると、まさにこの構造の縮図であることがよく分かる。

 彼女が残したノートには、計算機が単なる数字の処理を超えて音楽やグラフィックを生み出す汎用的な存在になるという、驚くべき先見性が記されている。確かにこれは彼女自身の卓越した洞察力によるものだろう。

 しかし同時に、彼女が高名なバイロン卿の娘であり、伯爵夫人という超名門貴族であったからこそ、共同研究者のバベッジから研究資金調達のための「広告塔」として祭り上げられた側面も否定できない。近年では、実装としてのプログラムの大部分はバベッジが書き、彼女はそれを翻訳・解説したに過ぎないという批判的な研究もある。

 彼女がもし名もなき庶民の女性であったなら、その鋭い思想が日の目を見ることは決してなかっただろう。貴族という下駄を履いていたからこそ、彼女の言葉は現代まで残り、そして現代の文脈においてさらに「理系女性のロールモデル」として神格化されるチャンスを得たのだ。

 

 結論として、私たちが教科書で目にする昔の偉人たちとは「人類の中で最も優秀だった人」を意味しない。

 彼らは単に、「当時の社会で最も打席に立つ回数を与えられ、さらに結果をアピールするための拡声器を独占していた人」に過ぎないのだ。もし、当時の庶民のすべてに同じ教育が与えられ、同じスタートラインに立つチャンスがあったなら、歴史に名を残した偉人の顔ぶれは九十九パーセントひっくり返っていただろう。

 私たちが過去の偉業を振り返る時、本当に称えるべきは「偉人」そのものではなく、その偉業を可能にした、あるいはその影で搾取されていった名も無き庶民たちなのかもしれない。

 

 

おわり