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偉人たちは本当に「偉人」だったのか──エイダ・ラブレスと貴族階級

 歴史の教科書を開くと、そこには数々の「偉人」たちが並んでいる。前人未到の最高峰に命懸けで挑んだ登山家、人類の未来を変える大発見をした科学者、あるいは世界の真理を語った哲学者。私たちは彼らの功績を、個人の卓越した才能や強靭な意志の結晶として受け入れがちだ。

 しかし、一歩引いてその背景を眺めてみると、ある共通点に気づく。彼らの多くは、王侯貴族や圧倒的な富を持つ特権階級、つまり現代でいう「セレブ」たちなのだ。はたして彼らは、本当に人類の中で群を抜いて優秀だったのだろうか。歴史の裏側に潜む不条理を紐解くと、私たちが信じてきた偉人像の脆さが浮き彫りになってくる。

 

 まず直視すべきは、当時の社会における圧倒的な構造の不平等である。昔の庶民にとって、生きることはそれ自体が過酷な労働であった。夜明けから日暮れまで泥にまみれて働き、ようやくその日の糧を得る。そんな「生活すること」だけで精一杯の日々の中で、学問や芸術、冒険に目を向ける余裕などあるはずがない。

 一方で、生まれながらに不労所得を持つ貴族たちは、人生のすべてを「暇潰し」や「趣味」に費やすことができた。当時の科学実験や思想の探求、あるいは未開の地への遠征は、どれも莫大な資金と時間を使った最高級のエンターテイメントだったのだ。

 教育を独占し、最先端の知識や機材に触れ、何不自由なく挑戦を続けられる環境があれば、凡庸な人間であっても何らかの成果を出すことは難しくない。彼らは特別に優れた遺伝子を持っていたのではなく、単に「挑戦する権利とリソース」を独占していただけなのだ。

 

 さらに不条理なのは、歴史に名が残る偉人の陰で、数え切れないほどの庶民の功績が搾取され、横取りされてきたという事実である。

 象徴的なのが、山々を初制覇したとされる高名な登山家たちの記録だ。歴史の表舞台でスポットライトを浴びるのは、資金を出し、最後に山頂を踏んだ白人貴族や超富裕層ばかりである。しかし、実際に重い荷物を背負い、危険なルートを切り開き、彼らの命を支えていたのは現地の案内人や先住民、つまり名もなき庶民たちであった。

 研究の世界でも同様だ。地道な計算や過酷な実験を繰り返した助手たちの血ににじむような努力は、パトロンである貴族や、研究室のトップである権力者一人の手柄として回収されていった。汗を流したのは庶民でありながら、果実を手にしたのは常に特権階級だったのである。

 

 なぜこのような不平等がまかり通るのかといえば、それは歴史を書き換える「記録と発信」の権力すらも、彼らが握っていたからに他ならない。どれほど優れた技術を持ち、画期的な発見をした庶民がいたとしても、それを文字として残し、本として出版し、学会や宮廷で発表する手段を持たなければ、その存在は最初からなかったものとして処理される。

 歴史とは、勝者や権力者によって都合よく編纂された物語である。文字を読み書きする一握りの人間たちが、自らの階級の素晴らしさを誇示するために、身内の評判を広め、互いにもち上げ合ってきた結果が、現在の教科書における「偉人」のラインナップなのだ。

 

 こうした視点から改めて世界初のプログラマーとされるエイダ・ラブレスの評価を見てみると、まさにこの構造の縮図であることがよく分かる。

 彼女が残したノートには、計算機が単なる数字の処理を超えて音楽やグラフィックを生み出す汎用的な存在になるという、驚くべき先見性が記されている。確かにこれは彼女自身の卓越した洞察力によるものだろう。

 しかし同時に、彼女が高名なバイロン卿の娘であり、伯爵夫人という超名門貴族であったからこそ、共同研究者のバベッジから研究資金調達のための「広告塔」として祭り上げられた側面も否定できない。近年では、実装としてのプログラムの大部分はバベッジが書き、彼女はそれを翻訳・解説したに過ぎないという批判的な研究もある。

 彼女がもし名もなき庶民の女性であったなら、その鋭い思想が日の目を見ることは決してなかっただろう。貴族という下駄を履いていたからこそ、彼女の言葉は現代まで残り、そして現代の文脈においてさらに「理系女性のロールモデル」として神格化されるチャンスを得たのだ。

 

 結論として、私たちが教科書で目にする昔の偉人たちとは「人類の中で最も優秀だった人」を意味しない。

 彼らは単に、「当時の社会で最も打席に立つ回数を与えられ、さらに結果をアピールするための拡声器を独占していた人」に過ぎないのだ。もし、当時の庶民のすべてに同じ教育が与えられ、同じスタートラインに立つチャンスがあったなら、歴史に名を残した偉人の顔ぶれは九十九パーセントひっくり返っていただろう。

 私たちが過去の偉業を振り返る時、本当に称えるべきは「偉人」そのものではなく、その偉業を可能にした、あるいはその影で搾取されていった名も無き庶民たちなのかもしれない。

 

 

おわり

『ウィッチャー3 ワイルドハント — 追憶の調べ』発表に寄せて

 本編発売から十余年、まさかここにきて大型拡張パックが発表されるとは、一体誰が予想できただろうか。『ウィッチャー3 ワイルドハント(The Witcher 3: Wild Hunt)』の最新エピソード、『追憶の調べ(Songs of the Past)』の話である。

 この奇跡のような吉報に、一人のファンとして驚きと喜びを隠せない。しかし同時に、一抹の複雑な感情が胸をよぎるのもまた事実だ。

 

 ぼくのなかで、ゲラルトの旅路は第二弾拡張パック『血塗られた美酒(Blood and Wine)』の結末をもって、完璧に、そして美しく完結していた。

 あの陽光が降り注ぐトゥサンの地、コルヴォ・ビアンコの瀟洒な邸宅で、最愛のイェネファー(もしくはトリス)とともにワイン用の葡萄を育てながらのんびりと余生を過ごす……。

 それこそが、過酷な運命を生き抜いた彼に許された最高の報酬であり、ファンが切望した大団円だったはずだ。あの穏やかな隠居生活を、これ以上脅かしてほしくないという過保護な親心のような感覚すらある。

 

 だが、本作のタイトルは『追憶の調べ』だ。この言葉の響きから察するに、これはコルヴォ・ビアンコでの平穏を壊す地続きの未来ではなく、過去を振り返る「回想語り」のエピソードなのではないだろうか。

 かつての旅の途中で紡がれた、語られざるもう一つの物語。それならば、あのエンディングの余韻を汚すことなく、純粋に新しい冒険として受け入れることができる。

 もしもこれが過去の回想録であるならば、期待せずにはいられないことがある。かつてケィア・モルヘンでゲラルトを厳しくも温かく導いた、師匠であり最高の相棒でもあったヴェセミルの健在な姿をもう一度見たいのだ。

 あるいは、計算高くもどこか憎めない元諜報員ディクストラが再び現れ、ゲラルトとお決まりの皮肉の応酬を繰り広げてくれるのも良いだろう。彼らのように一筋縄ではいかない魅力的な人物たちが、物語の世界に深みを与えていたのだから。何はともあれ、再びあの世界に浸れることへの期待は膨らむばかりだ。

 

 最後に、ファンとして日本でのパブリッシャーに強く願うことがある。ゲラルトの日本語吹き替え声優は、どうか今までと同じキャストを死守してほしい。あのジェイソン・ステイサム的なシブ声があってこその白狼だと言えよう。

 そして、ゲーム史に残る出来と称えられたローカライズ品質も、何ひとつ妥協することなく引き継いでいただきたい。

 ぼくはSteamに十数年間入り浸っている洋ゲーおじさんであり、「日本語ローカライズ品質に鬼厳しいおじさん」でもある。そんなぼくを満足させてくれたのは、『Disco Elysium』と本作ぐらいのものだ(己が手掛けたものでさえ100%納得できる出来のものは稀だったりする)。

 そういうわけで、この『追憶の調べ』についても、そしていつか来る『4』についても、大人も楽しめる翻訳クオリティを維持してくれることを切望して本稿の結びとしたい。

 

 

おわり