メゾン・ド・ふわふわ

「かねもうけブログ」ではありません。

フェミニズムと「結果の平等」「機会の平等」。

 ぼくは女性も男性もその価値は等しいと思っている。

 どこかの大学に務めていた頃は、わざわざ志願して男女共同参画なんちゃら委員会(※)的なものの構成員になったりもしていた。

※大学というものは無意味な会議が大好きなのだ。そしてそれをさも意義あることのように見せかけるのがとても上手い。

 

 理想とするのは、女性であろうが男性であろうが、その生き方において性別による一切の制限のない社会だ。

 そんな男女共同参画社会推進派のぼくだけれど、今の世の中を見ていると「その方向性、合ってる?」と思うこともしばしば。

 その際たる例が「企業等における女性管理職の割合をうんたら%以上に」というやつ。それ、強制したり目指したりしなければならないような話なのかな?って。

 大切なのは性差による向き不向きを理解した上で、互いの仕事や生き方を尊重し、尊敬し合うことではないか。女性の男性化を目指しても社会全体の生産性が下がるだけなのではないか。

 

 少女マンガや女性ファッション誌を見ると、今でもやはり好みの男性のタイプとして「グイグイ引っ張っていってくれる人」だとか「頼りがいのある人」といった文言が上位に並ぶ。

 こうした思考は先天的本能的なものであり、後天的な教育によるものではないと思うのだよね。

 なので、いくら(後天的な教育として)ドラマや映画、その他諸々で不自然な割合で女性指導者を登場させたところで、現実世界におけるリーダー的立場の男女比率は未来永劫1対1の割合にはならないだろう。

 それは【女性が劣っているからではなく】、そもそも女性にはそうした生き方、リーダー的な生き方に憧れる者の割合が少ないためだ。

 

 何故憧れる者が少ないかというと、男性と比較して男性ホルモンの量が少ないからだろう。

 男性ホルモンは闘争心や攻撃性に強く影響するという。相手を打ち負かしたいだとか、支配したいだとか、統率したいだとかね(「何かを突き詰めたい」みたいな衝動欲求にも影響しているという話もどこかで読んだかもしれない)。

 だから多くの男性は生まれながらに勝つことや上に立つことを目指そうとする。しかし多くの女性は男性ホルモンの割合が少ないため、そうした争いに魅力を覚えにくく、憧れる者が少ない。

 割合が少なく絶対数が少ないわけだから、優れた人材も現れにくい。これは例えばスポーツで、競技人口の少ない国には優れた選手は現れにくいのと同じ理屈だよね。

 であるにも関わらず「女性管理職の割合をうんたらかんたら」などという目標を掲げ、その能力に達していない(かもしれない)人材を管理職に据えたりしてしまうから他の従業員の忠誠心やそもそも業績に悪影響を与えたりする。

 念のために強調しておくと、女性が管理職やリーダーになることに不満があるなどという馬鹿げた話ではないよ。機会の平等は大切だけれど、結果の平等はおかしいよねという話。

 もちろん「今は男女共同参画社会実現のための過渡期であり多少の不具合は仕方がない」「今はそういった生き方も選べるということを努力目標などを通じて女性に啓蒙する時期なのだ」といった考えもわからなくはない。傲慢で好きにはなれないけれどね。

 

 でもやはりぼくには不自然で滑稽に見えてしまうのだよなあ。

 冒頭の繰り返しになるけれど、大切なのは性差による向き不向きを理解した上で、互いの仕事や生き方を尊重し尊敬し合うこと。

 そして女性だろうが男性だろうが自由に好きに生き方を選べること、ではないか。

 そのうえで機会の平等は当然。しかし、結果の平等を強制するのはよくないねという話。自然であれ!という話。

 

 余談だけれど、街を観察していると作業着を着るような職業に女性の姿が殆ど見られない。なんとなく目指す平等の方向が偏っているようにも思える。

 もし適性よりも結果の平等を重んじるのであれば、そういった仕事にも女性を多く進出させなければならないよね。

 

 

おわり