メゾン・ド・ふわふわ

「かねもうけブログ」ではありません。

なぜ、ドラマ『孤独のグルメ』はつまらなくなったのか。

おもしろいやつらがおもしろいものを創る

つまらない大衆に見つかる

つまらない大衆向けにアレンジされ無事つまらなくなる


 これはことテレビ界隈ではよく見られる現象だ。
 近年でも例えば『モヤモヤさまぁ~ず』や、あとは……えっと、うんと、ちょっとすぐには浮かばないけれど色々だ。思ったよりパッと浮かばなかったけれど、過去にも山ほどあったはずだ。

 もちろん、つまらなくなる理由はわかっている。大まかな理由は以下のとおり。

 

 好評により深夜時間帯からプライムタイム(ゴールデンタイム)へと昇格(それは本当に「昇格」なの?)する。

 すると、今までその番組を目にすることがなかった大衆の目に触れることになる。

 大衆とはつまり「くそつまらない人生を送っているくそつまらないやつら」であり、より高い視聴率を得るために彼らの好みに合う内容にアレンジすることが求められてしまう。

 その他にもスポンサーへの配慮、訴訟リスクの回避、どうでもいいことにイチャモンつけてくるやつらへの対策などにより、エッジの効いたおもしろさは失われる。

 その結果、「職場の昼休みに繰り広げられる毒にも薬にもならない気絶するほどつまらない談笑」のような番組になってしまい、あれだけセンスの良かった番組もモノの見事に「くそつまらない大衆向け番組」に成り下がってしまうというわけだ。


 そして残念なことに、ぼくの好きだった『孤独のグルメ』も例外ではない。

 深夜ドラマの空気感が漂うシーズン1や2は本当に素敵だった。

 原作の面影を残したハードボイルドな井之頭五郎(以下「ゴロー」とする)。気怠さを感じさせるブルージーなBGM。いい感じに棒読みなエキストラの皆さん。そして、そんな中にちょっとクスりとさせられるユーモアetc...。本当に近年まれにみる傑作だった。

 そんな素敵な『孤独のグルメ』が怪しくなってきたのはシーズン5あたりからだ。

 ぼくの記憶が正しければそのあたりから、ゴローが何らかのハンディキャップを背負った方のような間延びした喋りをし始め、シーズン6であまり賢くない人々にも楽しんでもらうためか「変顔」を披露したりしだしたのだ。

 そして、このあたりでぼくは視聴を断念した。

 その後も「大晦日の生放送」など、『孤独のグルメ』はまさに大衆向けにセルアウトしちまったわけである。

 ディレクターや演出家、脚本家らもきっと「こんなの俺が創りたかったものじゃない!」と思っているはずなのだよな。

 でも、芸術家ではなく会社員であり組織人である彼らは、己らのクリエイティビティを押し殺してマス向けの「売れる商品」を作り続けているのだろう。そのあたりは同情してしまうところだ。

 なお、本稿は今の『孤独のグルメ』をこき下ろすことを目的としたものではない。ただあの頃の、あの素敵だったゴローを取り戻したいという一心によるものなのだ。そこだけは勘違いしないでいただきたい。

 いつかまた、シーズン1や2のような作風に戻るといいなあ……。

 ちなみに、この最初期のゴローはAmazonのプライムビデオで観ることができる。あの頃の空気感をご存知ないひとは、一度観てみるのもいいだろう。

 

 ……と、ここまで読んで「そうそう大衆ってのはつまらねえよなあ」などと笑っているおまえ。おまえのTwitter(今はXとかいうらしいな)のフォロー欄、見せてみ?くそつまらないお笑い芸人やらくそつまらないユーチューバーやらくそつまらないインフルエンサー(笑)みたいな連中をフォローしてるじゃん?おまえも立派な「くそつまらない大衆」側の人間ですよ。

 

おわり